2011年  5月
  
  5月 3日(水)

   大震災に思う 2
TV「瓦礫の中から言葉を」(辺見庸)を2回見てただただ圧倒された。辺見庸の印象に残った言葉をメモし、いくつか書き留めておいた。

「今、胸の底に届く言葉をしっかりと深く考え、想像し言葉として打ち立て、未完成であれ痛みの念とともに届ける。」

「命は、なんて短く予定されていないものか。3・11以前の文化とこれからも同じか?人が人に対して誠実に。混乱に乗じるのでなく、いつもよりやさしく誠実な愛。」

「人間の生は、ある日突然ブイ(浮票)になってしまう。手は手、足は足にばらばらになった。この破壊、かぎりない破壊に言葉を最初からもっていない、用意していない。本質に近づこうとする言葉があるでしょうか?言葉は、人に対する関心のあらわれ。」

「日常はもどらない。舞い戻ることに意味はない。絶望は人というものの一つの能力。今ある絶望を深めていくのも能力。新しい可能性の糸口になる。」

「浅い次元で自分のエネルギーを燃え尽きるのでなく、一歩深めて、絶望、悲しみを深めていく。自分の魂にあった質にしていく。見捨てた言葉を回復する。廃墟にされた外部に対して内部をこしらえる。新しい内部をほる。新しい内面をこしらえる。もっと私として個的な実存。腑に落ちる内面。それが希望。」

二編の詩が紹介されたのでこれも書き留めておいた。

  どれか一つだけ教えてほしい
わたしはまだ立っている
潜望鏡のように
三月の水は瞳孔の
すぐ下まできている
さっきカヤネズミが
横倒しにながれていった
虹彩をかするようにして
ガラスビーズの眼が
わたしをちらりと見た
わたしはカヤネズミの眼に問うた
やつぎばやに
―洗われているのだろうか
―ながされているのだろうか
―壊されているのだろうか
―造られているのだろうか
―これは〈後〉なのだろうか
―これは〈前〉なのだろうか
カヤネズミはキキと笑って
角膜のむこうにながれていった
ガラス体が水でいっぱいになった
世界は滲出させられていた


  死者に言葉をあてがえ
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなるそれだけの歌をあてがえ
死者の唇ひとつひとつに
他とことなる
それだけしかない言葉を吸わせよ
類化しない統べない
かれやかのじょだけの言葉を
百年かけて
海とその影から掬え
砂いっぱいの死者に
どうか言葉をあてがえ
水いっぱいの死者は
それまでどうか眠りにおちるな
石いっぱいの死者は
それまでどうか語れ
夜ふけの浜辺にあおむいて
わたしの死者よ
どうかひとりで歌え
浜菊はまだ咲くな
畔唐菜はまだ悼むな
わたしの死者
にとりびとりの肺に
ことなる
それだけの
ふさわしいことばが
あてがわるまで

辺見庸の言葉に触発されまた森有正の「新しく生きること」のCDを聴いた。
これも書き留めておいた。

「古い物を脱ぎ捨て新しい物を身にまとわなければならない。新しい命名と新しい定義の探求。」

「各人が経験(現実)を持っているだけでなく、全人類にとって経験は一つ。しかし、みんながそれに参与するのでもない。」

「ユシジテ(仏語)、自分をとらえている相手から自由になること。コンテスタション(仏語)、異議申し立て。造反。相手に対して自分をたてること。」

 両者とも内側から変わっていくことを説いている。
10年前、一度だけ校内の研究部長をやったことがある。その時、研究主題を「内側からの成長を促す授業の創造」、副主題を「想像力あふれ追究する子ども」と考え、職員間で決めた。しかし転勤でそれは実現できなかった。
3年前、長野県伊那小学校の研究会に参加した。ここの研究主題は、長年「内から育つ」という極めてシンプルなものだ。もちろん私が考えたものも森有正氏や伊那小からヒントをもらったのだった。

 今回、再度、内側から変わっていくことを改めて意識した。いや、せざるをえない。それは、もしかすると私の人生にとっても大きな転回点になるのかもしれない。

5月4日(水)

 柴田翔の小説「されど我らが日々」を読んだのは、確か高校2年生の時だったと思う。2歳上の大学に行っていた姉に当時紹介されたのだった。その中で主人公が古本屋で一冊の本を見つける描写を今もまだ覚えている。

 石川書店が閉店になるという記事を読んでからもう2回ほど訪ねた。学生時代よく来ていた場所だ。新聞記事を読んで私とそう変わらない年齢なんだということがわかった。その石川さんもいて何冊か本を買った。

 今日も街に行った帰りに寄る予定だったが、ラルズ8階でやっている古本市に急遽変更した。こちらは8日で終了だからだ。なんと1冊百円で掘り出し物がたくさんあった。重たい思いをして帰ってきたが気分はよかった。

 夜、これも以前古本で買った戸部けいこ作、漫画「光とともに…」(自閉症を抱えて、秋田書店)4巻目を読んだ。自閉症の入門書にもなり恥ずかしながら非常に勉強になった。最後は、定年1年前の教師がやる気を出すところで終わり、自分もまたやる気が出てきた。

14日(金) キャンドルナイトで花崎さんの詩の話。よかった!

21日(土) チャリティコンサートに参加。ウエールズ民謡「はえあれキャンブリア」を歌う。


28日(土) 「キャタピラ」を観る。山上たつひこの「光る風」思い出す。

 山上たつひこの「光る風」や真崎守の「ジロがいく」を読んだのは、高校3年生の時だった。その時の衝撃は今も覚えている。今回「キャタピラ」を観て思い出した。
 それにしてもなんと現代にマッチした漫画であろうか。今もリアルタイムで進行中の出来事だ。
最後のモノローグを書いておく。

「弦は、もうずいぶん長い間生き続けてきたような気がした。いったいおれは、いくつになったのだろうー。一世紀近くを生き抜いてきた老人のようでもあるし また歩き始めたばかりの赤子のようでもある。教えてくれ おれは… 教えてくれ、それにおれは…今までどの時代に生きて生活してきたのか…? …そう思った時、彼は、過去と未来の自分が現在の自分といっしょになって歩いている姿に気づいた。そして…今なぜか急に自分の体が重くなり、足が地中深くすいこまれていこうとする理由を遠くなっていく意識の下でかすかに理解できたような気がした。
 
 風がー 重く陰湿な大地を はぎとらんばかりに なおも
 はげしく ふきつける風がー

一条の光をといもなって わずかに彼の肉体にしがみついた意識を はるか遠くへふきとばした。」

30日(月)
 「光とともに…」15(最終巻)読み終わる。最高によかった。夜、広瀬隆講演会。