2013年 11月

 退職して半年以上過ぎ再任用(算数TT)の仕事もだいぶん慣れてきた。退職したらやりたいことをウイッシュリストとして作成していたが、まだまだこれからだ。今は、時間を何に使うかが最大の課題となっている。帰宅して午後は、録画していたTVを見ながら一人感動している。(妻はだいたい用事でいない)
 今年の7月26日朝7時に札幌駅発で13時35分に盛岡着。15時51分に宮古に着いた。今となっては、この時間でJRは行かない。それから二日間は、現役時代から踊っていた中野七頭舞の現地講習会だった。練習の成果を仮設住宅の方々の前で踊るという感動的な場面もあった。
 講習が終了し宮古でレンタカーに乗り、釜石、遠野、南三陸、石巻、仙台まで行った。
 現地講習会に出ること、震災跡を訪ねることは、ウイッシュリストの中にあった。
 3・11は、いろいろな意味で大きな出来事でありそれは今も続いている。
 政治的にも民主党政権が崩れていくきっかけともなったし(95年阪神大震災の時の村山政権もそうであったが)現在も福島原発は、大きな政治的課題となっている。
もちろん私たち一人一人にもつきつけられた課題でもある。私の友人は、既に何度も東北に行ったり、「ライフワーク!」と語る方もいる。そういう意味で震災跡は、つねならぬ「現場」として存在している。
私が一番ショックを受けたのは、石巻大川小学校の前に立った時だった。崩れ落ちた校舎の様に声は出なかった。子ども74名、教員10名、またたくさんの地域の方々が波にのまれた現場だった。咄嗟の時の教師の判断がいかに大事かということを嫌というほど感じた。
 南三陸町の防災センター、道路沿いにある大きな漁船も見た。しかしこの二つは、解体
される運命にある。
土台だけが残る家々、草ぼうぼうとなった平地、工事している高台、行きかう大型トラック、津波に襲われたままのアパート、崩れ落ちた堤防など次々と写真におさめた。
 釜石小学校の体育館にも行った。そこに飾ってある井上ひさし作詞の校歌を見たかった。
 避難所となった当時、あるおばさんが、この校歌を見て「今の私たちにぴったりの歌だね。」と言ったそうだ。それを聞いて子どもたちが毎朝歌って励まし合ったという。絶望の中に希望があるとしたらこういうことなのかもしれない。

  釜石小学校校歌
1いきいき生きる いきいき生きる
ひとりで立って まっすぐ生きる
困ったときは 目をあげて
星を目あてに まっすぐ生きる
息あるうちは いきいき生きる
2はっきり話す はっきり話す
びくびくせずに はっきり話す
困ったときは あわてずに
人間について よく考える
考えたなら はっきり話す
3しっかりつかむ しっかりつかむ
まことの知恵を しっかりつかむ
困ったときは  手を出して
ともだちの手を しっかりつかむ
手と手をつないで しっかり生きる

 井上ひさしさんの言葉に「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに」とある。
 井上ひさしさんは、子どもたちに難しいこともやさしく書いてくれたと思う。
 仙台からは新幹線で静岡に向かった。ここでは、音楽教育の会全国大会があった。17年ぶりに参加することができた。
 札幌にもどり震災関係のニュース、TVの特集を多く目にするようになった。あの風景は、ここだったなと現場に行った強みで見聞きできる。
 書いたようにこれからも3・11は続く。時間を何に使うか、その一つが3・11が、つきつけた課題として私の中にある。