コスモス
 
 君を はじめて見たのは、僕が受け忘れた物理の授業を聞くために3階の2番教室へ行った時だった。君は、確か前から2列目の端に座っていた。予備校の物理の授業は、男ばかりで、その中で君の存在は、目立っていた。《黒いベストにGパンか》
 僕は、君のななめ後ろの方に座ってまるで動物を観察するようにながめだした。君は、髪の毛を短めにそろえ耳をかぶせてその先端は、口元まで伸びていた。それはきれいな「し」の字型をしていた。
《あれでは横にいても顔は見えないな。一体どんな顔をしているのだろう》 君は、他人に顔を見られるのが嫌でわざとそんな髪型をしていたのかもしれない。君は、熱心に講師の説明を聞いてノートに写していた。講師も君の方を見て説明していた。それに気づいてか君は、少し赤くなって下を向いてしまった。
《チェッ講師の奴、色気だして。それにあんな説明を熱心に聞くなんてよっぽど頭 悪いんだ。》
 僕にとっては授業は、あまりにもやさしく退屈するものだった。僕は、冷房が ききすぎている教室を見回し、9月に入ってそろそろ緊張しだした奴らの視線を背中に感じながら眠りに陥っていった。
  バタン
 前の奴が立ち上がる音で目がさめた。授業が終わったのだ。君の方を見ると君は、横に出ようとしているところだった。
《なんだ あいつ》
僕は、一瞬 動作がとまってしまった。君は、左足をひきずりながら肩を大きく左右に振って教室を出ていったのだ。
《そうか。よし 今度は あいつの近くに座って問題を教えてやろう。》
 僕は、そしてなんとなく足をひきずって歩きはじめたのだった。

 一週間が過ぎて同じ物理の時間僕は、いつも君が座りそうな近くに座った。
                 
《きっと この辺に座るぞ》
 やがて 君は 後ろの方からやってきて 僕のちょうど前に座った。
《やった》
 君のショートカットの髪が 目の前にあった。僕は それに触ってみたい衝動にかられたけれども やめた。
「すいません。今日は どこからですか?」
「え?」
《おっ!》
「今日は 15番からだと思ったけれど…」
 君の声は 高音で少し なまりのある うわずった調子だった。
 人は 人に話しかけたという理由で その人の口調とか歯並びだとか目付きだとか その人の表情だとか忘れられないという関係ができる。いやそればかりではない。時間が一瞬止まったように その時の風景とか教室のざわめきとかが思い出される。
 一週間くるのが待ち遠しくなった。
 そして 一週間ごとに会うのが ほとんど毎日になり 時々 近くの喫茶店に入ったりするようになったのは、10月ごろだったろうか。
 僕は 喫茶店の二階から君が やってくるのを待っていた。君は いつものように足をひきずり肩を左右に振ってやってきた。
《あぶない!》
 僕は 飲もうとしていたカップを持ったまま 窓越しによった。なんのことはなかった。つまずいただけだったのだ。
「遅れて ごめん。」
「大丈夫?ころびそうだったんじゃない?」
「いやだ 見てたの?」
「まあね」
ウェートレスが やってきた。
「ミルク」
君は はっきりとした声で言った。
                   
 そしてそれから僕たちは、昨日のテストのこと 好きな映画やなつかしい高校時代のことなど話しつづけた。
 僕は もうとっくに冷めてしまったコーヒーを飲みながら この人を好きになってしまったのではないかと思いはじめていた。
 君は 喫茶店に入ったら よく話す女の子だった。伏し目がちに 時々は目を上げて。
「ねえ、今度の日曜日 忙しい?」
「いや、どうして?」
「うん。そしたら N公園にいかない?」
「N公園? そうだなテストも終わったし。」
「私ね 足悪いから あまり人通り多いところ嫌いなの。」
「いいよ。でも単語帳忘れるなよ。」
「いや−」
 と言って君は ほほえんだ。
 喫茶店には ところどころに学生の姿が見え、僕らと同じ男女のカップルもいれば 男ばっかりのもいた。音楽は タラのテーマがながれていた。
「ちょっと失礼。」
君は 足をひきずってトイレに行った。僕は 後ろ姿をながめながら君が どういう格好でするのか想像してみた。そしてすぐやめた。
《もっと やさしくしてやろう。》
 僕の心が 何か わからないもので満たされていくのを感じた。そして
その感情をまぎらわすためにグラスに入った水を一息で飲むのだった。

 N公園は 本当に人が少なかった。街のはずれの小高い丘にあって、街並を見渡すことができた。君は その日 朝早くから起きてサンドイッチを作ったと まるで小学生のように はしゃいでいた。
 君は いつもと同じようにGパンと紺色のシャツを着ていた。小春日和でもみじの紅葉が とてもきれいだった。
 僕らは、白樺の木の下の芝生にすわって 街をながめ 空をながめ
                              
雲を追いかけ サンドイッチを食べて おにごっこをして遊んだ。(当然
おには いつも僕だった。)
 生が こんなに楽しいものだったとは知らなかったし 君がそばにいるだけで僕は 満ち足りていた。君は どうだったのだろうか?
「私 小さいでしょう。だから時々 小学生に間違えられるの。」
「へ−。やっぱり。」
「やっぱりって何よ。」
「ごめん。」
「私 植物に生まれてきたかったなあ。」
「えっ」
「植物は いいわ。世代交代でなくて 核相交代だもの。いつも同じ きれいな花を咲かせて。」
「どんな花が 好きなの?」
「そうね」と言って 君は 草をむしり少し考えていた。
「コスモス」
「コスモスの意味 知っているかい?」
「いや」
君は 熱心な目付きで見た。
「あのね。コスモスは 宇宙という意味なんだよ。宇宙花と言って 別名
秋菊。背が高いから なんとなくそんな気がするね。」
「ふ−ん」
君は 本当に小学生のように うなずいた。
「でもコスモスって1年草だよ。1年だけで終わってしまうよ。」
「それでも いいの。」
「僕は 松だな。千年も生きられる。」
君は やさしく ほほえんだ。
僕は それから そっと君の肩を抱き寄せた。心臓の鼓動が聞こえてきた。 太陽は 夕焼けで赤く 僕らの住んでいる世界は 洞窟の中で あの太陽が出口のようにも見えた。
                    
 冬休みまでの二か月 僕は 勉強に精をだした。君は 確か小説ばかり読んでいたように思う。冬休みは 地方の実家に帰ると言っていた。
 実家に帰るという前日 僕らは久し振りに街に出た。街は 歳末でにぎやかだった。
 君は 一緒に歩く時は 足が目立たないように僕の後ろからついてきた。一緒に食事をして映画を見た。もう別れるという時だった。
「私ね。」
「えっ。」
「私 スカートはきたかったの。」
 僕は その時 君の表情は 見なかったけれども その声のひびきは さびしそうだった。僕は 君の手をとって にぎった。君は 擦れ違う視線に恥ずかしそうに下を向いて歩いた。そして君は強く にぎりかえしてきた。 バス亭まで送った。君は 一番後ろの席にすわって お互い 姿が見えなくなるまで手を振った。
 それが君を見た最後の姿だった。
 君は アパートから地方の実家にひきあげていった。
春になって 僕はS大学 君は地元の大学に入った。
 そして 6月の初夏のころだった。
「優一 電話だよ。」
僕は 母に呼ばれて下に降りていった。
電話は 君の母からだった。
「もしもし優一さんですか?」
「はい そうですが。」
「私 千津子の母ですが… 実は千津子がひとつき前に自殺しまして。」
「えっ」
僕は 声がつまった。
「どうして」
「何か 大学がつまらないとか言って…それで部屋を片付けていたらあなたの…」
                     
 泣いていた。
「それは どうも どうも…」
僕も何て言ってよいか わからなかった。
《なぜ もっと早く知らせてくれなかったのか》
電話をおいた。放心状態でベッドに何時間も寝ていた。
 やがて僕は 物置に行って 板きれを捜し それをひざの後ろに固定して屈伸ができないようにした。
 足をひきずって 僕は 街に出た。何人もの擦れ違う人の視線を感じた。
「私 植物に生まれたかったなあ。」
「私 スカート はきたかった。」
君の言葉が 脳裏に早鐘のように思い出されてきた。歩いていて 汗がでてきた。のども渇いてきた。
 そして 僕は これからは こうやって足をひきずりながら生きていくのだなと 朦朧とした中で 思いはじめていた。

      初夏
 青い風に さまよえる魂 草のにおい 乱れ咲く花たち
 わきでる血の涙 立ちすくむ私

 空に遊泳する 結び合う魂 乾いた空気 舞い踊る鳥たち
 伸びていく葉 私は ひとり