バンコクの印象
11月23日 日本時間夜の10時。成田から約6時間かかってバンコクに到着。時差は、2時間なので8時である。出迎えにバンコクでガイドをしている日本出身のミナミさんが来ていた。翌24日 ホテル発8時。午前中は バンコク市内見学である。
バスの中から市内を見る。本当に車の渋滞がすごい。その間をオートバイタクシーが、するすると駆け抜けて行く。事故も多いということである。
まずチャオプラヤー川(メナム川)を船で渡って運河を見る。水上に建てられた家があるが、これは決して貧しいということではないらしい。家の柱は、3,4年で取り替えるということである。途中 鉄橋を見る。これが泰緬鉄道(旧日本軍が現地労働者と捕虜を使って突貫工事した鉄道)のカンチャナブリに続いていると思われた。カンチャナブリからナムトックまでの一部が現存して今でも使われているのだ。
ミナミさんの話。バンコクは、人口600
万人以上いるが、高級マンションとスラム街があり、貧富の差がある。100
万人は、スラムに住んでいる。
その話のとおり、高級ホテルやマンションが建つと同時にちょっと横に入るとスラム街が広がっていた。お金は、バーツ。1000円で300
バーツであった。つまり物価は安い。
午後からルンピニー小学校訪問する。生徒数908
名。職員数37名。子どもたちがタイダンスを披露してくれた。
その後、学校の説明をして交流となった。こちらから持って行った子どもたちの作品やノート、鉛筆、ボールペンなどプレゼントした。
話の中で わかったこと。
教科は、タイ語、数学、社会、科学、運動、英語、文化と踊りなど。給食時間は、お昼1時間あり、トイレは、随時行くということ。夏休みは4〜5月にある。10月に中間休みがあって、冬休みは ない。小学校入学の試験はなく、学費は無料。日本の歴史については、小学校ではタイ国内の歴史だけで、中学でタイ国外の歴史を教えているということであった。
その後 教室を見学。子どもたちは、両手を合わせて迎えてくれていた。それに対してこちらは、一緒になって両手を合わせてはいけない。また子どもの頭をなぜてはいけないということである。(タイの慣習)
夜 この学校の先生方との交流会があった。その席上で、男の先生が、教師の給料が安いことを言っていた。日本については、テレビ番組が放送されていて いろいろなことを知っていた。「クレヨンしんちゃん」も知っていて、その内容が、タイでもびっくりしたということであった。
旅行 最後の日、カンボジアからの帰り 再度バンコクに寄った。最初見た印象とは、違い「東京」のように感じた。カンボジアの印象が、ものすごく強かったのである。
札幌についてから何冊か本を読んだ。武藤一羊氏(アジア太平洋資料センター)の「アジアの50年 どう変わったのか」(1995年、オルタ通信)を引用したいと思います。
『振り返ってみると、戦後期日本の革新運動には、アジア像というべきものが欠如していたことに気づく。ましてや日本の東南アジア侵略はまったく視野の外に置かれていた。 (中略)こうして私たちは、出発点に投げもどされたのである。アジアを内部化した日本の変革、日本の変革を含むアジアの変革を構想することを迫られる地点に。』『ネオアジア主義は、民衆の現実を覆い隠す。開発の成功のもたらす社会的矛盾は激烈で一方でそれを謳歌する階層とイデオロギーを生み出すとともに自然環境と夥しい人々を破滅的状況に投げ込んでいる。』
メイドイン東南アジアをたくさん使っている私自身がいる。アジアの一員でありながら他のアジアの国に行くまで、アジアということに視点が、知りつつも実際は向いていなかったように感じる。これからは、実際出会った、見てきたアジアの人々のことを頭に入れながら考えることができるだろう。
またミナミさん推薦の映画「アンナと王様」をビデオで見た。見学した王宮も出てきてなつかしかった。セリフに「バンコクだけ見てもシャムは、わからない。」という一節があった。ナルホドと思った。2003.11.
べてるの衝撃
2003年5月17日 土曜日 札幌から浦河まで車を走らせる。朝8時出発。36号線(室蘭街道)をまっすぐ行って11時30分到着した。
総会まで ぶらぶら座に行った。カレーライス、そばを無料でご馳走になった。おいしかったです。
開会の言葉があり、すぐ下野さんの歌(総会の歌)だった。総会と爽快をひっかけて おもしろい歌。のっけから笑わされた。
全国各地から530
人の参加。
べてるの家の成り立ちからの話や病気の説明などあった。
暗さ、悲壮感が一切なく みんな力をぬいて一人一人生き生きとしていた。 病気の説明は、やはりそれを経験した人では わからない切迫感があり
(妄想、幻聴、暴力など)引き込まれた。
西河さんの歌3曲がとてもよかった。今でも通勤の行き帰りに聞いている。自分も肩の荷が降りていく感じがあった。みんなの話に はからずも涙がでた。でも逃亡失踪症など心底笑わされた方が多かった。
「生きていく力」=「降りていく力」をもらった。
降りていく生き方には、降りていく力も必要であり、それは、今の自分の
生きていく力になっている。
斉藤潔さんのGM大賞までいることになり、帰りは、結構しんどかった。
自分を考える。自分は、それなりにエリートで今まできたことを感じる。また「先生、先生」と「あがめられて」。そのことに気づかない教師たち。 平場から考える、見渡してみる。目線を同じにして、視線を同じにして。そこには 何と多くの人がいることであろう。多くの宝があることだろう。 そういう視点を獲得していきたいと強く思う。
そういう人たちと つながっていきたい。時間が かかるけど。
今までは、自分の立場や責任を果たそうとして必死だったように思う。
べてるから学んだこと。肩の力をぬいていこう。信頼。ユーモア。など。
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総会のようす |
広島・長崎の語りかけているもの
大阪より南に行ったことがなかった。それが今年の夏、広島・長崎行きが決定したとたん躊躇してしまった。
しかし今、広島・長崎をめぐってみて、一つの痛切な思いにかられている。それは、簡単に言うと「戦争の悲惨さ」みたいなものだ。もちろん戦争体験のない僕のこの思いは、広島・長崎で生き、かつ死んだ、そして今なお苦しんでいる人々から見れば、はるかに及ばないものであるとしても…。
<雨の広島>
広島の市電に北海道代表団が乗り、「次は、原爆ドーム前です。」のテープが聞こえた時、僕の胸は高まった。ちょうど小雨が降っていて、その雨にうたれながら原爆ドームの前に立つと、やはり足が、すくんでしまう。他の人たちも無言で見ている。予想していたのより、それは はるかに大きく、なまなましかった。
あまりにも有名になり商業化されているとは言え、ドームは、それなりの形で僕に衝撃を与え、人々を威圧し、何かを語りかける力を持っているのだろう。
20分も見て、僕たちは、平和公園の中心へと また無言で歩く。それから市内デモ。原水禁広島大会。1980年8月4日のことだ。
<原水禁大会・平和教育分科会・世界大会>
4日から6日にかけて参加した。新聞やテレビでも大々的に報道されたみたいだった。その中で世界大会の時、詩人の しこくさんが、朗読した「広島の子ども」は、悲しみの原点に帰り、その場にいた多くの人の共感と涙をさそったのであった。
平和教育分科会も参加してみたが、各地の報告だけにとどまり、深まった話し合いは、なされなかったように感じた。
8月だけでなく、不断の原水禁運動の必要性を感じた。
<長崎の証言>
8月7日長崎に向かう。長い旅で体は、少し疲れているけど、新しい土地や体験に精神は、活発だ。
長崎は、山に囲まれ、以外と小さな町だった。ドームみたいな象徴的なものは、ないが山王神社の片足鳥居(二本の柱のうち一本が吹き飛ばされた)、生き返った楠の木(当時75年間草木も生えないと言われたが新しい芽が出てきた)、浦上天主堂の50mも下に吹き飛んだ大きな鐘、長崎大学の傾いた門柱など歩きまわって見てきた。
平和公園ににある爆心地には塔がたっており、ここの上方約500
mでプルトニウム型爆弾が炸裂したのだ。1945年8
月9日、午前11時2分。
僕は、思わず空をながめてしまった。
<城山小学校の平和授業>
長崎原水禁大会のはじまりまで 時間があったので 近くり城山小学校に行くことにしました。長崎では、ほとんどの学校が8月9日登校日となっており、平和授業が なされるそうです。
城山小では、体育館一面に原爆の写真、絵、版画、平和という習字、資料が展示されていて、僕が行った時、ちょうど1年生か2年生が、先生と一緒に見てまわっていた。子どもたちは、真剣に先生の話を聞いている。北海道では、見られない光景だ。
「原爆許すまじ」を合唱したり、「平和」という文字を心をこめて書いたり、写真を見たりして、長崎の平和教育は、着実に前進しているようだ。
ここの平和教育分科会では、長崎県教組の取り組みに対して、市教委、県教委の圧力が激しいことを語っていた。そして北海道の平和教育の遅れをいやというほど知らされた。
<最後に>
短い時間の間に 僕は、広島・長崎の語りかけているものは何か 必死で歩きつづけ、タクシーをとばして さがした。
そして これを書きながら 僕の見てきたのは、結局ダイジェスト的なものではなかったか。原爆でメチャクチャになった人生のその人の悲しみには、到底ふれることは、できないだろうと思った。
だからこそ いっそう根をはった原水禁運動として内なる広島・長崎をさがしつづける努力を それを子どもたちに伝えるという実践の中で明らかにしていかなければならないと思う。
1980年8月
教育現場から
小学校の教員になって32年が過ぎた。今も毎朝、「おはよう!」と元気に子どもたちは、やってくる。私自身教室から離れる道には、行かなかった。
以前、6年生を受け持っていた時、「先生、教師やっていて、あきない?」と聞いてきた子がいた。確かに7〜12才までの子どもたち相手だ。だが、学校が違えば新しい出会いもたくさんあった。だから、あきることは、なかった。
それよりも毎日、事件、ドラマの連続で時間が、あっというまに過ぎていった。朝から寝るまでいつも何かをしているという習慣もついてしまった。何かすることがあるということは、逆にいいことなのかもしれない。
ところが、32年たって残ったものは、膨大な教材・教具、録音した歌声のカセットテープ、子どもたちを映したビデオテープや写真、もう読まない学級通信、文集、様々なプリント資料などで、仕事上なにか作品や業績として残るわけではなかった。
大きくなった子どもたちに会うことはない。すべて記憶の中にその時々の子どもたちが小学生のままでいる。その数も膨大になっている。元小学校教師の船戸咲子さんは、それを「子どもの海」と呼んでいた。
これもだいぶん前の話しだが、「子どもは、昔と変わったか変わってないか?」という話題をめぐって教員仲間で論争している場面に遭遇したことがあった。
今、思うことは、子どもは、やっぱりそんなに変わっていないということだ。
変わったのは、教育政策。それも新自由主義の教育政策(常に二面性をそなえた)だ。「学級崩壊」「モンスターペアレント」「発達障害」「特別支援教育」「不登校」「いじめ」という言葉が生まれた。これらには陰と陽がある。
3年前、私もこの壁にぶち当たった。その時は、「教師生命」の危機でもあったが、なんとかきりぬけることができたのは、友人、知り合いなど自ら求めた他者の力だった。それ以来、授業スタイルを変えた。子どもとの接し方を変えた。笑顔を取り戻した。人をほめることを覚えた。話し方を変えた。職場での立ち位置を変えた。
様々な子どもたちのおかげで教師である自分を変えることができた。教える者が教えられたのである。それは、今も変わらない。心と体と頭を可能な限り柔らかくしながら自分自身を変革していかなければ務まらない。だからあきないのである。
今年は、朝読書で後藤竜二の「三年一組物語」を読み、平井雷太さんの「らくだプリント」をやり、パソコン、スマートボードを駆使し、稲を育て、蚕から糸をとり、「はねこ踊り」をやって、韓国朝鮮の歌を教え、「三年とうげ」の劇をやった。子どもたちは、熱中できるものには、熱中する。
小学生の成長の中でも三段階にわけることができる。1,2年生は、人でいえば少年、少女期。3,4年は、青春時代。5,6年は、成人。そういう風に見て、接すると子ども相手でもしっかり対応できると思う。
私もやがて学校を去るだろう。その時まで林光さんの歌にあるように学校が、「いつまでも私たちのともだち」と子どもたちが呼べるようにしていきたい。
2009年11月
父と母のことなど
私の父は四十四歳で母は六十六歳で亡くなった。二人合わせてちょうど百歳だ。
両親が亡くなった時、私は、十歳と四十五歳だった
父との思いでは、少なからずある。
休日だと思う。当時住んでいた旭川の家の草原でよくキャッチボールをした。ボールをなくしては、見つかるまで捜した。素振りの練習もさせられたものだった。どちらかというと嫌だったが、今となっては、すべてよい思い出だ。
小学校が父の職場の大学と隣にあったので朝、自転車の後ろに乗って学校まで連れていってくれた。それもまた嫌だったので何回かでやめてもらった。
花火大会やお祭りも自転車で連れていってくれた。みるからに頑丈な父愛用の自転車だった。お祭りから帰って来て欲しい物が買いたかったので私は、「また行く。」とだだをこねたことがあった。その時も父は、しぶしぶ連れていってくれた。
二歳年上の姉と二人で父の職場の旅行に行ったことがあった。バスの中で父は、マイクで「ベニコン、ベニコン〜」と歌っていたことを覚えている。少し恥ずかしかったことも。
家では、当時買ったポータブルプレイヤーで「いつでも夢を」を何回も練習していた。社会の先生だったので夜寝るとき社会を教えてくれたことが一度あった。勉強を教えてくれたのは、その一度だけ。
頭にできものができたと言って母によく薬をつけてもらっていた。最後に元気な姿を見たのは、家からタクシーに乗って入院する時だった。
一方母は、料理が上手だった。よく父の大学の友人を招待していた。そこで母は、おいしい料理をつくり、ドイツ語で「菩提樹」や「野ばら」を歌っていた。
また、家の前にある芝生をきれいにして花を植えたりしていた。そして私に花の名前を覚えさせた。
クリスマス前夜に町でみんで食事をして帰宅したら泥棒が入っていたことがあった。その時盗まれた物は、クリスマスケーキだったことをよく話題にしていた。
父が札幌の北大病院で半年の入院、手術を経て亡くなった時は、三十五歳だった。まだ若かった。それから父の大学で働かないかという話もあったが母の実家のある芦別に三人でもどってきた。祖父母の家の二階に居候というかたちになったのだ。母は、和裁教室に通い、やがて卒業し自分で収入を得るようになった。町なかに一件の中古の家を買いそこで三人で住むことになった。
二人の子どもを大学まで行かせてくれた母は、五十五歳でリュウマチを発症し十年間入退院を繰り返し自宅で一人亡くなった。
前日に和裁のお弟子さん二人が遊びに来ていたという。朝、隣に住んでいた姉が見に行った時、「眠れなかったので少し寝るから」と言っていた。昼休み姉が心配で帰って来た時苦しんでいたので救急車を呼んだ。
その夜、私も札幌から家族で駆けつけたが間に合わなかった。
父の書いた一冊の書物がある。「近代家族」という本だ。私の場合、その近代家族とは、
一体どうだったのだろうと思う。父が記したようにできただろうか。
私は、父よりはるかに長生きしている。息子は、今年大学を卒業し、就職した。娘は、大学に入学したが私とは、あまり話したがらない。妻は、仕事で忙しい。
今一人になって考える。「家族って何だろう」
確かなことは、私には、両親の思いでがあるということ。それと私の家族にも思い出があるということ。それらを胸の内に抱いてこれからは、生きていくということだ。