カンボジア紀行 遥かなるカンボジア |
「タイ・カンボジア友好交流代表団」として道内の教職員15名で11月23日から30日までタイ、カンボジアの方へ行ってまいりました。 バンコク市内視察研修、小学校訪問、教職員との交流。カンボジア世界遺産視察研修、カンボジア教職員組合との交流、シェムリアップ小学校訪問。「カンボジアの村を支援する会」(CVSG)の障害者自立村と子どもセンター訪問。井戸堀り体験。プノンペン市内視察研修、戦争博物館見学、中学・高校の学校訪問などです。 朝から夜までプログラムがあり、今 思い起こすとかなりハードでした。日中は、32度以上もあり、真夏でした。札幌に無事 着いた時は、正直ホッとしました。慣れていないせいか、その後、発熱し めまいにおそわれる始末です。 でも つきせぬくらいの収穫がありました。いくつかを紹介します。 CVSG(NGO)の大西さんの話。井戸は一本2〜4万円でできる。370 本作った。 だが、ODAの援助の 半分のお金はどこかに消えてしまっている。子どもらは、一人10ドルで売買される。それを何とか救出している。地雷を踏んでしまったらその家は、医療費で破産する。麻薬やエイズも多く、仕事についてない人も多い。そういう家族が何とか自立してもらいたい。 このような意志でCVSGを作った方です。ここで私たちも井戸堀りを実際におこな いました。スコップで掘るものと想像していたのですが全然ちがいます。4mもある細い鉄パイプに先が矢じりのように尖っているものがついていて、そこから水が流れ出ていくようになっていて、鉄パイプの途中に両手をつかむ所があり、そこをまわしながら ぐりぐりと押し込んでいくのです。次々と付け足していき、10m〜25mで水脈にぶつかると太いパイプを入れていきます。やってみたのですが、ちょっとやそっとでは掘れません。かなりの力が必要でした。時間の関係でみな少しずつとなりましたが、あの暑さでは、かなりたいへんな労働だと思いました。 また村の中に日本語教室があり退職された小学校の先生が教えていました。(北海道 出身の方) 私も飛び入りで手遊びを教えたりしてきました。 カンボジアの先生方との交流。ポルポト時代(1975〜79年)教師は、連行され拷問や処刑されたとのことです。現在、教師の賃金は月20ドル(2200円ぐらい)で、とっても暮らしていけない状況です。男性のなり手がいなくアルバイトをしなければなりません。学校も一クラス40〜50名で子どもの人数も多いので2部制になっています。 こちらから持って行った子どもの作品や鉛筆、ノート、ボールペンなどをプレゼントしてきました。 夜の交流会でたまたま横に座った先生と話をすることができました。「カンボジア ピィープル ベリー プゥア」が耳に残りました。 UNTAC(日本のPKOも参加)に見守られながら総選挙をおこなってちょうど10 年目のカンボジアをまのあたりに見ることができました。しかし物乞いをしてくる子ども、片足なくした人々の姿が何と多かったことでしょう。 プノンペンにある戦争博物館を見学し、まだまだカンボジアの内戦やポルポト時代の 後遺症が大きいことがわかりました。 大西さんが言ってました。「カンボジアは、今バブルだ。2,3年後に崩壊するだろう。それにそなえなければ。」と。物乞いをする人々と乱立し建設中の観光ホテル。国レベルの援助でなく、自分自身の生き方を含めて草の根の援助をどうつくりだしていくのかを十二分に考えさせられました。 カンボジアは、タイとベトナムに挟まれて歴史的にも争いが多かった国です。アンコールワットもタイ領になったこともあり、それを取り返したという意味も込めてシェムリアップという名をつけたそうです。ここからアンコールワットに行きます。全部 石でできていて さすがに壮大な建築でした。30年前カメラマン、一ノ瀬泰造がアンコールワットを写しに行くと言って行方不明になったのもちょうど同じ時期でした。 アンコールワットの中央回廊の頂上に登り四方の森を見渡しながら様々な感慨を持ち ました。アンコール朝の都として栄えたころ、ポルポト派の拠点として… しかし登ったはいいけど降りる時は命が縮む思いでした。 札幌に着いてから一ノ瀬泰造の本を読み、最後の一枚が望遠で写したアンコールワットだったことを知り、改めて遥か遠くまで行ってきたのだなと強く感じました。 今は もっともっとカンボジアのことが知りたくなりました。 2003.11. |