広島・長崎の語りかけているもの |
大阪より南に行ったことがなかった。それが今年の夏、広島・長崎行きが決定したとたん躊躇してしまった。 しかし今、広島・長崎をめぐってみて、一つの痛切な思いにかられている。それは、簡単に言うと「戦争の悲惨さ」みたいなものだ。もちろん戦争体験のない僕のこの思いは、広島・長崎で生き、かつ死んだ、そして今なお苦しんでいる人々から見れば、はるかに及ばないものであるとしても…。 <雨の広島> 広島の市電に北海道代表団が乗り、「次は、原爆ドーム前です。」のテープが聞こえた時、僕の胸は高まった。ちょうど小雨が降っていて、その雨にうたれながら原爆ドームの前に立つと、やはり足が、すくんでしまう。他の人たちも無言で見ている。予想していたのより、それは はるかに大きく、なまなましかった。 あまりにも有名になり商業化されているとは言え、ドームは、それなりの形で僕に衝撃を与え、人々を威圧し、何かを語りかける力を持っているのだろう。 20分も見て、僕たちは、平和公園の中心へと また無言で歩く。それから市内デモ。原水禁広島大会。1980年8月4日のことだ。 <原水禁大会・平和教育分科会・世界大会> 4日から6日にかけて参加した。新聞やテレビでも大々的に報道されたみたいだった。その中で世界大会の時、詩人の しこくさんが、朗読した「広島の子ども」は、悲しみの原点に帰り、その場にいた多くの人の共感と涙をさそったのであった。 平和教育分科会も参加してみたが、各地の報告だけにとどまり、深まった話し合いは、なされなかったように感じた。 8月だけでなく、不断の原水禁運動の必要性を感じた。 <長崎の証言> 8月7日長崎に向かう。長い旅で体は、少し疲れているけど、新しい土地や体験に精神は、活発だ。 長崎は、山に囲まれ、以外と小さな町だった。ドームみたいな象徴的なものは、ないが山王神社の片足鳥居(二本の柱のうち一本が吹き飛ばされた)、生き返った楠の木(当時75年間草木も生えないと言われたが新しい芽が出てきた)、浦上天主堂の50mも下に吹き飛んだ大きな鐘、長崎大学の傾いた門柱など歩きまわって見てきた。 平和公園ににある爆心地には塔がたっており、ここの上方約500 mでプルトニウム型爆弾が炸裂したのだ。1945年8 月9日、午前11時2分。 僕は、思わず空をながめてしまった。 <城山小学校の平和授業> 長崎原水禁大会のはじまりまで 時間があったので 近くり城山小学校に行くことにしました。長崎では、ほとんどの学校が8月9日登校日となっており、平和授業が なされるそうです。 城山小では、体育館一面に原爆の写真、絵、版画、平和という習字、資料が展示されていて、僕が行った時、ちょうど1年生か2年生が、先生と一緒に見てまわっていた。子どもたちは、真剣に先生の話を聞いている。北海道では、見られない光景だ。 「原爆許すまじ」を合唱したり、「平和」という文字を心をこめて書いたり、写真を見たりして、長崎の平和教育は、着実に前進しているようだ。 ここの平和教育分科会では、長崎県教組の取り組みに対して、市教委、県教委の圧力が激しいことを語っていた。そして北海道の平和教育の遅れをいやというほど知らされた。 <最後に> 短い時間の間に 僕は、広島・長崎の語りかけているものは何か 必死で歩きつづけ、タクシーをとばして さがした。 そして これを書きながら 僕の見てきたのは、結局ダイジェスト的なものではなかったか。原爆でメチャクチャになった人生のその人の悲しみには、到底ふれることは、できないだろうと思った。 だからこそ いっそう根をはった原水禁運動として内なる広島・長崎をさがしつづける努力を それを子どもたちに伝えるという実践の中で明らかにしていかなければならないと思う。 1980年8月 ![]() ![]() |