父と母のことなど
 私の父は四十四歳で母は六十六歳で亡くなった。二人合わせてちょうど百歳だ。両親が亡くなった時、私は、十歳と四十五歳だった。父との思いでは、少なからずある。
 休日だと思う。当時住んでいた旭川の家の草原でよくキャッチボールをした。ボールをなくしては、見つかるまで捜した。素振りの練習もさせられたものだった。どちらかというと嫌だったが、今となっては、すべてよい思い出だ。
 小学校が父の職場の大学と隣にあったので朝、自転車の後ろに乗って学校まで連れていってくれた。それもまた嫌だったので何回かでやめてもらった。
 花火大会やお祭りも自転車で連れていってくれた。みるからに頑丈な父愛用の自転車だった。お祭りから帰って来て欲しい物が買いたかったので私は、「また行く。」とだだをこねたことがあった。その時も父は、しぶしぶ連れていってくれた。
 二歳年上の姉と二人で父の職場の旅行に行ったことがあった。バスの中で父は、マイクで「ベニコン、ベニコン〜」と歌っていたことを覚えている。少し恥ずかしかったことも。家では、当時買ったポータブルプレイヤーで「いつでも夢を」を何回も練習していた。
 社会の先生だったので夜寝るとき社会を教えてくれたことが一度あった。勉強を教えてくれたのは、その一度だけ。
 頭にできものができたと言って母によく薬をつけてもらっていた。最後に元気な姿を見たのは、家からタクシーに乗って入院する時だった。
   
 一方母は、料理が上手だった。よく父の大学の友人を招待していた。そこで母は、おいしい料理をつくり、ドイツ語で「菩提樹」や「野ばら」を歌っていた。      
 また、家の前にある芝生をきれいにして花を植えたりしていた。そして私に花の名前を覚えさせた。
 クリスマス前夜に町でみんで食事をして帰宅したら泥棒が入っていたことがあった。その時盗まれた物は、クリスマスケーキだったことをよく話題にしていた。

 父が札幌の北大病院で半年の入院、手術を経て亡くなった時は、三十五歳だった。まだ若かった。それから父の大学で働かないかという話もあったが母の実家のある芦別に三人でもどってきた。祖父母の家の二階に居候というかたちになったのだ。母は、和裁教室に通い、やがて卒業し自分で収入を得るようになった。町なかに一件の中古の家を買いそこで三人で住むことになった。
 二人の子どもを大学まで行かせてくれた母は、五十五歳でリュウマチを発症し十年間入退院を繰り返し自宅で一人亡くなった。
 前日に和裁のお弟子さん二人が遊びに来ていたという。朝、隣に住んでいた姉が見に行った時、「眠れなかったので少し寝るから」と言っていた。昼休み姉が心配で帰って来た時苦しんでいたので救急車を呼んだ。その夜、私も札幌から家族で駆けつけたが間に合わなかった。
 父の書いた一冊の書物がある。「近代家族」という本だ。私の場合、その近代家族とは、一体どうだったのだろうと思う。父が記したようにできただろうか。
 私は、父よりはるかに長生きしている。息子は、今年大学を卒業し、就職した。娘は、大学に入学したが私とは、あまり話したがらない。妻は、仕事で忙しい。
 今一人になって考える。「家族って何だろう」確かなことは、私には、両親の思いでがあるということ。それと私の家族にも思い出があるということ。それらを胸の内に抱いてこれからは、生きていくということだ。