十歳のころの思い出 
 
 小学校4年生の時の担任の先生は、小林孝虎先生という名前であった。第一印象は、とても体が大きく恰幅もよく、その上色めがねをかけていたので、怖いというイメージであった。そんなこともあり成績は、3年生の時より大幅に下がってしまった。両親もいたく心配していたことを覚えている。
 一度クラスで先生のお宅に遊びに行ったことがあった。広く、暗い家であったのでおにごっこをして遊び、家の人に叱られたことを記憶している。
 「近文の四季」という題で一冊の文集が残っている。確か小林先生が記念に文集を作ろうとおっしゃったに違いない。まえがきには、こんなことが書かれている。
 「四年生のまとめとして、文集を発行することになった。それからみんなで四年生の生活を反省しながら、そのまとめにかかったのである。」
 私は、編集担当にならなかったので原紙きりは、しなかった。ただ担当になった子どもたちは、はたから見ても大変だったことは覚えている。
 私の作文は、「海水浴」とういう題で旭川から増毛に行った日のことが書かれてあった。当時は、汽車に乗り1泊の旅行であった。読んでいるとその時のことが甦ってくる。友人と話したり、異性のことが気になり出したこともおかげで思い出した。
 学生時代を通して卒業文集以外で手作りの文集は、これ1冊しかない。そういう意味では、小林先生のお仕事は、よかったのかもしれない。後、文集にはこんな文もあった。
 「近文の四季のなかに みんなの生活があるのだ。 近文の四季のなかに みんなの美しい夢があるのだ。 近文の四季のなかで たのしくみんながのびるのだ」と。
 小林先生は、短歌界では、ご高名な方であったことを知ったのは、私が大きくなってからだった。
 
 学習面は下がったが、遊びに関しては、よく覚えている。放課後、多分体育で習ったハンドベースボールをほとんど毎日のようにグラウンドでしていたことだ。何人かの仲のよい友人とそれと女子も加わって楽しく夢中になって遊んだ。やがて高学年からは、仲がいいねとひやかされ、先生からは、速く帰るようにと注意されてしぶしぶやめることになった。この時、友人と何人かでつるんで遊ぶ楽しさを覚えてしまった。
 父とキャッチボールやバッティングを始めたのもこの頃だった。グローブやバットを買ってもらい、うきうきしていた。しかしあまり上達せずボールをよく探していたことだけは覚えている。その年の暮れ、私は、十歳になった。クリスマスプレゼントは、長靴につけてすべる雪スケートだった。買ってもらってうれしくて夜、姉と二人ですべったことも覚えている。心配して母が迎えに来たことも。そしてお正月を迎えた。今、思い返せばそのお正月が、旭川で家族四人で過ごした最後のお正月となった。
 やがて大人になって教師となり毎日子どもたちに囲まれ、年はとるけど、いつまでも「少年の心」は消えていかない。今も4年生の子どもたちを見ながら当時の自分を探している。
                                                      2011.2.27